■選挙権は「審査・登録制」に・・・ 

   〜震災1周年に思う〜


現在、選挙権は成人であれば原則無条件で有する(与えられるんじゃない!)。
しかしもっと良いやり方があるのではないかと、中学生の頃から常に思ってきた。
ここに来て、一周年を迎えるあの原発大災害を経験して、改めてその思いを強くしている。
あの災害の当時「ざまあ見ろ。これでこの国の選挙民の長年の愚かな投票の結果が分かったろう。」と思った。

先の大戦アメリカとの無謀な戦争も、愚かな選挙民の選んだ結末と言うことが出来る。
敗戦当時人々は萎縮し、うなだれ、自らの国が選んだ愚策を心底反省した。他人を叱咤激励した国策一途・好戦愛国の町内会長などを憎んだ。
しかし自らの愚かさにはまったく思いは至らなかった。
このため全てを忘れるのも早く、戦争への反省や嫌悪は3年もたたず消え始めた。

今回の原発大災害も、全く同じ図式である。
なんのことはない、大多数の選挙民が歴代の自民党的腐敗政治家に権力を与え続けてきた結果が、地震列島での53基の原子力発電所であり、水素爆発なのだ。
要するに愚かな我々は自らを傷つけられて初めて、おのれの歩んできた道がとんでもない悪しき道であったと気がつく。

しかしこの道を選んだのが自分自身だとは思わない。歩かされたと思いこむ。

明治以後は高額納税者だけが選挙権(参政権)を「与え」られ、大正末期に普選法が行われても女性は除外された。今のような全くの全員参加型参政権になったのは昭和20年だ。
いずれにしても,何回やっても賢明とは言えない、タレントやプロレスラー、政治家ならぬ政治屋が当選するという「大衆の審判」がくだされる。
この「全員参加型」に問題があるとしか思えない。

やはり投票するには、ある水準以上の「知力」または「知性」が必要なことは誰しも認めるところだろう。
明治大正期では基準を納税額で切り分けた。これは乱暴な話で、金を稼ぐ能力だけで参政権を左右されてはたまらない。「知性」のないほうが金儲けがうまい場合だってある。
要するに、何らかの方法で「尊重すべき判断力」があるかないかを、見分けることができればよいのだ。

どんな方法がよいのか誰も確答できないだろう。知性を測る尺度があるとは思えない。
いかし、かすかな手がかりとして、数学または算数的判断力、理解能力が知力を維持・増進するのには欠かせない、とは言えると思う。
たとえば小学4年生の算数で、分数の加減算がでてくるが、いくつかのこれらの計算問題に対する正答率で参政権を決定する、というのは乱暴すぎるだろうか。

分数の理解力があれば、物事を分析・分解して判断する力もあるのではないか、というのは少しこじつけがましいが。
少なくとも納税額で決定する、というよりはマシだろう。 小学4年の算数もできない人に政治を左右されたくない、と私は思う。
そのほか、中学1年の負数の知識・理解力があるか等の「被選挙権資格テスト」などが考えられる。

たかが車の運転でさえ筆記試験がある。 もっと重要な「政治への参加資格」が無試験・無条件では危険きわまりない、とはこの度の原発大災害が明確に示してくれている。
戦後60年をかけて、ずっと呆けていた選挙民が、この惨事をを引き起こしたのだという自覚を、誰しも持ってほしい。

酷い目に遭わなければ誤りに気付かない、誤った判断をした本人が災いを受けるのは仕方がないが、そのとばっちりを受けて長年真剣な投票をしてきた少数派の私なんかが平等に被害を受ける。
おかげで我が家のまわりは毎時1.5マイクロシーベルト。 それでも「ざまあ見ろ。これが君らへのプレゼントだ。よく分かったか。」と、我が身を痛めつけ乍ら溜飲をさげている。
こんな事態になった以上は、せめてみんなで「選挙改革」を実現して欲しい。すべてはきちんと考えられた真剣な票から始まるのだ。
選挙権・資格制度は、まっとうな国をつくる必要不可欠な殆ど唯一の方法だ。