脱線事故と日本人の人権意識

  • 集中力をうまくコントロールできる人と出来ない人がいることは確かです。 私が出来ない方の一人だから確かな話。

いろいろな局面でそれを確認する体験をしてきました。
これは体質というかビョーキというか、その人の先天的性格・能力だと思います。
睡眠時無呼吸症やこれに似た原因も当然あるはずです。 ただ、出来ない方に分類される人が人間として劣っているとか、生きるに値しない人間だとかは思わない。
自分がそうだからと言うこともありますが、じっくり考えながらよりよい方向を選び、人生をより深く楽しむ能力に優れ、人に寛容な(いい加減という見方もあるが)面があることは見逃せない。
こちらに分類される人間は20〜40%はいると思います。 案外多くてもっと多数、極端に言えば80%くらいはいるのかもしれません。
つまり人命を預る仕事、一瞬の気も抜けない仕事をやれる人は案外少ないと思う。
天才的なジェット戦闘機のパイロット、天才的なF1レーサーあたりを頂点として、旅客機のパイロットや新幹線の運転士などというように徐々にランクが下がるでしょうが、

  • 集中力のコントロールが苦手な人にはすべてこれらの仕事は向いていない。

しかしこれらの仕事をソツなくこなすことはだれでもできる、根性次第で出来るようになる、という思想は日本人の頭のどこかに巣食っています。
日本陸軍の伝統に、小さめの軍靴を支給されても交換を要求せず自分の足をそれに合わせるのが真の日本軍人である、と言うのがあったそうですが、これとどこかで共通する思想です。
個性の存在を無視し、もしくは全く理解できず、一様にたたき込み規格品を量産する。 これは近代日本の得意技です。だがこれは個性の軽視、人格の軽視、人権に対する無理解といった日本人の後進性を生みました。

  • JR西日本は個性や能力の違いを理解できなかった。

しごけば何とかなる、鍛えれば(いじめれば)使える人間になる、という単純粗雑な日本陸軍的発想でむりやりやってきた。

  • しかも一方では二人(運転士)乗務の廃止、過密ダイヤ、軽量車体と高速運転、というマイナス要因を次々に増やしてきた。

尼崎脱線事故の全責任は、これらを無思慮に実行してきたJRの代々の経営陣にあります。断じて適切な適性検査を受ける機会もなく自分に向かない仕事をしてきた運転士にはありません。
いくら自分で望んでもだれでも歌手や野球の選手になれるものではありません。
JRには効果的な適性検査で適材を見いだし運転士に任用する義務と責任があります。
不適な人材には絶対にこの仕事に就かせてはならないのです。人命に関わることですから、差別・不平等とは別の次元の話です。
くりかえしますが、集中力持続の下手な人が人間として劣っているのではありません。カラオケの下手な人が恥ずべき人間でないことと同じです。
これを「草むしり」や「反省文の山」で克服させようとしたJRの歴代経営陣は、その愚かさを徹底的に反省しなければなりません。

  • 更にはJRおよび日本社会全体の人権に対する不感症的体質を自己批判する必要があります。

ミスを犯した運転士に屈辱的な罰を与え、ひたすら恐怖感だけでマインドコントロールするやり方に、誰も疑問を感じなかったという恐ろしさ。他人の人格を傷つけ、尊厳を踏みにじることに心が痛まない人々。
日本の社会では「人権」という言葉はまだまだ抽象的な、言葉の上だけの概念のようです。